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No.41

新堂家の憂鬱・二


「義兄上! おやめください!」
 少太郎の手が大蔵に届くより早く、駆け込んできた清士郎が素早く少太郎を羽交い締めにした。
「貴方! いい加減になさいまし!」
 後から女房の弓が青くなって飛び込んできて、大蔵の前に平伏した。
「大蔵様! 主人の度重なるご無礼、何卒、何卒お許しくださいませ!」
 大蔵に平身低頭する妻を見て、少太郎はさらに激昂した。
「馬鹿野郎! 人でなしの親に媚びへつらいやがって! お前は俺の娘がこいつの息子にどんな目にあわされたのか忘れたのか!? お前も人でなしか! このど阿呆! 恥知らず! 阿婆擦あばず……」
 姉を侮辱する言葉に我慢できなくなった清士郎が、堪らず少太郎に送り襟絞えりじめを掛けた。泥酔していた少太郎は一瞬で落ちた。
「大分荒れた生活をしている様じゃの」
 崩れ落ちた少太郎を見つめて涙する弓に、大蔵が声をかけた。
「お恥ずかしい姿をお見せして、申し訳ありません」
 少太郎を抱き上げ、道場を出て行く清士郎を目で追いながら、弓は夫の非礼を詫びた。
「娘が出て行ってから、ずっとあの調子で。門下生たちも呆れて粗方辞めていってしまいました……」
 泣き暮らしてすっかりやつれた弓は、荒んだ生活を続ける夫に疲れて、つい当て付けがましいことを口にしたのを恥じてうつむいたが、おずおずと顔を上げて
「あの、今日は一体何の御用でしょうか」
 と大蔵に尋ねた。
「うむ」
 大蔵は口髭の下に蓄えた筆のような顎鬚を撫で付けると、おもむろに用件を切り出した。

「今日の暮れ六つ前に、お主だけ身一つで屋敷に来てほしい」

 それが大蔵の用件だった。それ以外の説明は一切なかった。
(そんな時刻に何故私が、一体何のために?)
 疑問は尽きなかったが、村長むらおさである大蔵の命とあらば行かねばなるまい。藤鼠の色無地に生成りの絽綴れの帯を締め、弓は家を出た。夫を残して出かけるのは不安だったが、清士郎が自分が見ているから大丈夫だ、と言ってくれたので、帰るまで夫を頼むことにした。七つ下がりの刻に出れば、暮れ六つ前には屋敷に着く。
 九月に入ってもまだまだ暑い日が続いていたが、風は幾分涼しさを感じるようになってきた。それでも西日を避けて日陰を選んで歩く自分が、文字通り日陰者になったように思えて、弓は気が滅入った。そうこうするうちに、約束の時間より少し早く屋敷に着いてしまった。
(早く着けば用も早くに終わるだろう、目が覚めたら、あの人はまた酒に溺れるし、弟に甘えてばかりもいられない……)
 そんなことを考えながら、弓は門をくぐり、
「御免くださいまし、新堂でございます」
 と挨拶した。すると思いもよらない言葉が返ってきた。
「母上!」
 懐かしい声がして若い娘が弓の首にかじりついてきた。
「えっ!?
 弓の首に回した腕をほどいて目の前に立っていたのは、一日とて忘れたことのない愛娘だった。
「ああ貴女、もっと顔をよく見せて頂戴!」
 弓は両の手で穂高の頬を挟み、まじろぎもせず見つめた。あの日、元結から無残に切り落とされた髪は、綺麗に切り揃えられ、今や肩に届こうとしていた。
「穂高、穂高! ああ、私の娘!」
 溢れる涙を拭いもせず、今度は弓が穂高を強く抱きしめた。
「さあ母上、もう泣くのはこのぐらいにして、あがって頂戴」
 穂高はまるで勝手知ったる我が家のように弓を中へ招いた。
「お前、これは一体どういうことなの? 何故お前がここに、いつからいるの? どうして大蔵様が私を呼びに、わざわざうちまで来たの?」
 二度と会えないと思っていた娘との再会に喜びながら、弓は矢継ぎ早に疑問を投げかけた。
「一度に全部は無理よ母上、ひとつずつ話すわ」
 母の手をしっかり握りしめ、穂高はこれまでの経緯を話し始めた。

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