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新堂夫妻の諧和(かいわ)


 昼間、義理の弟から思わぬ告白を受けた新堂少太郎は、夜になってもまんじりともせず、布団の中で考えを巡らしていた。しかし、自分の理解の範疇を越えたことをいくら考えても答えは出ず、寝返りをうってはため息をつくばかりだった。半刻ほどそれを繰り返したあと、少太郎は自己解決の道を諦め、隣で息を潜めている女房に助けを求めることにした。

「よう」
「……」
「おい、もう寝たのか」
「……」
「まだ起きてんだろ?」
「……ん」
「お前、知ってたのか」
「……何をです?」
「……清士郎のことだよ」
(ああ、とうとう知れたのね……)
「ずうっと口止めされてたの。『先生に話したら死ぬ』って」
「……馬鹿野郎が」
「私言ったのよ、貴方と一緒になるとき、養子縁組して新堂の子になりなさいって。でも、あの子、頑として『嫌だ』って」
「そんなに俺の息子になるのが嫌だったのかよ」
「違うわ、私よ」
「?」
「私を母と呼びたくなかったのよ、あの子。貴方を独り占めされるようで我慢ならなかったのね」
「……分からねえ、俺にはさっぱり分からねえ」
 そう言うと少太郎はごろりと横を向いた。
「間が悪かったんだわ。十五なんて微妙な歳じゃなくて、もう少し早くか、もっと大人になって落ち着いてから一緒になるんだった」
「今更そんなこと言っても遅ぇよ。そういうどうしようもねえことは言うな」
「そうね」
「……あいつ、俺のこと諦めてくれるかなあ」
「大丈夫よ、あの子の中では貴方は初めから父親なんだもの」
「そうなのか?」
 少太郎は振り返って弓を見た。天井を向いたまま弓は続けた。
「あの子が物心つく前に父も母も亡くなってしまったでしょう。母親の代わりはなんとか私がこなしていたけど、父親というものをあの子は知らないのよ。だから貴方に求めているものも実は父親なのよ」
「じゃあ、お前、初めっからそのつもりで?」
「まさか。そんなこと考える余裕なんてあの頃なかったわ。私はただ、身体の弱かったあの子を丈夫にしたくて貴方の家を頼っただけ」
「そうか」
「そうよ」
 少太郎は弓から天井に視線を移した。
「お前と一緒になって、すぐ穂高も生まれちまったしなあ……」
(やっぱりあいつには可哀想なことをしちまったのかもしれない)
 その言葉を少太郎は飲み込んだ。
「でも良かった」
「何が」
「これでやっと胸のつかえが取れたわ」
 心底ほっとしたように弓が言った。少太郎は舌打ちをした。
「冗談じゃねえ、男に告白なんかされて、こっちは石でも呑み込んだ気分だぜ」
「穂高や私が貴方を好きだと言うのと同じよ」
「馬鹿野郎、穂高と一緒にするない」
「一緒よ」
 無邪気な笑顔でまとわりついてくる幼い穂高を思い出し、少太郎の頬が一寸緩んだ。
「待てよ、お前がそんなこと言うのを俺は聞いたことねえぞ」
「あら、そうかしら」
「止せよ揶揄うのは。俺ぁ今日は清士郎のことだけで一杯一杯なんだからよ」
 ふふ……と弓が笑った。女房の笑い声を聞くのも随分久しぶりだった。
『姉上のことが好きだと言ったからーー』
 昼間の清士郎の言葉が、つと思い出された。
(ああ、そうだったな。確かにそう言った)
「畜生、昔のことを思い出すなんざぁ、年寄りのすることだ」
「ん?」
「なんでもねえ、もう寝るぜ」
 そう言って布団を被ると、少太郎は今度こそ眠りに就いた。



No.48  伊賀隠レ里異聞小説本文


新堂家の憂鬱・六


 楽しい時はあっという間に過ぎ、弓は、大蔵と春に幾度も頭を下げ感謝の言葉を述べると、服部屋敷を後にした。
門まで見送りに来た穂高が
「母上、今日は来てくださって本当にありがとう。今度は是非父上と一緒にいらしてくださいね」
 と言って弓の手を握った。弓が名残惜しんで、その手をなかなか離せずにいると、灯りを持った雄一郎が現れて、弓を家まで送っていくと申し出た。穂高は雄一郎に
「母を、お願いします」
 と言葉少なに頼むと、潤んだ目で雄一郎を見つめた。雄一郎は小さくと頷くと
「では」
 と言って屋敷に背を向け歩き出した。
 弓が振り返ると、辺りはすっかり暗くなっていたが、屋敷の門前だけが篝火で仄かに明るく、穂高が手を振り見送っていた。始めは笑って手を振り返していた弓だったが、いつまでも手を振り続ける娘の姿が、次第に痛ましく見ていられなくなった。
「あの娘ったら、まだ手を振ってるわ」
「ええ、いつもそうです」
「見もしないで分かるの?」
「気配で分かります」
「なら、少しくらい応えてあげたら良いのに」
 向こうからはもう殆ど見えないだろうに、まだ手を振り続けている娘に、雄一郎は少し冷たいのではないかと弓は思った。だが雄一郎は真っ直ぐ前を向いたまま
「それは出来ません」
 と答えた。
「何故?」
 娘が哀れに思えて食い下がる弓に、雄一郎から返ってきた答えは意外なものだった。
「そんなことをしたら、帰れませんから」
「え?」
「いつもああして、俺の姿が見えなくなるまで手を振り続ける、そんな穂高の姿を見てしまったら、俺は一人でひとつ山へ帰れなくなる。だから絶対に見ないんです」
 雄一郎の姿が見えなくなると、その場にかがみ込んで忍び泣く穂高の姿までもが、雄一郎の瞼にありありと浮かんだ。
(そんな姿を見たら俺の心が挫けてしまう、今すぐ穂高の元に駆け戻って、抱き締めて連れて帰ってしまわずにはいられなくなる。だが、そんなことをしたらこの半年頑張ってきたあいつの努力が全て無駄になってしまう。だから、振り向くわけにはいかない)
 暗闇の中、灯りに照らされて揺らめく雄一郎の目を見て、弓は二人の本気を認めざるを得なかった。

 二人はそれきり話すこともなく、ただ黙々と家路を歩いた。だがその間も弓は考えていた。
 半年もの間、若い二人は離れて暮らしながら相手を思いやり、日々切磋琢磨していたのだ。それに引き換え、毎日ただ泣き暮らしていただけの自分と、やけを起こして酒に溺れていた夫。一体どちらが間違っているのか、火を見るよりも明らかだ。
(私は穂高の母親として、あの娘の幸せだけを願ってきた。なら、今私がしなければならないことはただ一つ……)
 やがて新堂家の門が見えてきた。雄一郎は弓に灯りを渡すと一礼し、声をかける間もなく闇の中へ姿を消した。弓は雄一郎が消えていった暗闇をいつまでも見つめていた。

 雄一郎と穂高が晴れて祝言を挙げたのはそれから三ヶ月後の正月のことである。



No.45  伊賀隠レ里異聞小説本文


新堂家の憂鬱・五


 まるで昨日のことのように淀みなく一気に話し終えると、穂高はほうと息をついた。
「それで、結局どうなったの?」
 すっかり娘の話に引き込まれた弓は続きをせっついた。母が驚きと興味の混じった眼差しで自分を見つめてると分かると穂高はにっこり笑った。
「それでね、雄一郎さんは今は週に三日、道場に稽古をつけに通ってるの。そして三日目の帰りにお屋敷に寄って、皆で一緒に夕餉を食べるのよ。そこで稽古の進み具合がどうだったとか、私が今週覚えたことなんかを話し合うの。今日はその三日目なのよ、そして半年を節目に、母上に私達のことを見てもらおうってわけなの!」
 穂高は満面に喜色を湛えて答えた。それとほぼ同時に暮れ六つの鐘が鳴った。
「ああ、もうすぐ雄一郎さんが来るわ! 母上、私、夕餉の支度をして来ますから、どうぞゆっくりしていらして!」
 恋しい人の訪れが待ち遠しくて、とてもじっとしていられないとでも言うように、穂高は浮足立って部屋を出て行った。
 一人客間に残された弓は、今聞いた信じられない話を頭の中で反芻した。
(つまり、穂高はあれからずっとこの服部様のお屋敷で、行儀見習いをしながら修業に励んでいて、『外れの雄蔵』と呼ばれていたあの男は、忍者道場の指南役を任されて、週に三日も村に通っている? これまでは年に三日も顔を見せればましな方だったあの男が。私たちはてっきり、娘はあの男の家で自堕落な暮らしに身をやつしているとばかり思っていたのに、同衾どころかひとつ屋根の下でさえなく、週に一度、夕餉の時間だけの短い逢瀬を待ち焦がれるような生活を、もう半年も続けていただなんて、とても信じられない。私は夢を見ているのではないのかしら……)
 弓が眉間に皺を寄せて煩悶していると、音もなく襖戸が開いて春が現れた。
「新堂の奥様、本日は突然にお呼び立てして、誠に申し訳ございません。夕餉の支度が出来ましたから、どうぞこちらへ」
 弓は思案に耽っていたところへ、服部家当主の奥方が現れたので驚いて、あたふたと居住まいを正すと
「滅相もございません、私どもこそ娘がお世話になっているとも知らず、ご挨拶にも参りませんで、とんだご無礼を……」
 と額ずいた。春はニコニコとして
「まあまあ、固い挨拶は抜きにして、どうぞこちらへ。雄一郎も間もなく戻りますから」
 と、弓を奥座敷へ案内した。座敷の入口で待っていた穂高が、弓を上座の前に通したので弓は更に慌てた。
「ええっ? 駄目よ穂高、私……」
 と狼狽する弓を穂高がなだめた
「いいのよ、母上は今日はお客様なんだから。さあ座って」
 穂高はオロオロする弓を座らせると、自分はそこから一人分置いたところに着座した。
 弓の向かいには大蔵が、その右隣に春が、ひとつ置いて入口を背にして陣蔵が座っていた。弓は、本来なら夫の少太郎が座るべき場所に自分がいることを恥ずかしく思った。しかし少太郎はあの通りである。
(ならば私がしっかりしなければ……)
 腹を括った弓が改めて挨拶しようと指を揃えたとき、
「只今戻りました」
 と、玄関から声がした。
 その声が聞こえるや否や、穂高はまるで兎が跳ねるように部屋を飛び出し、声の主を迎えた。
「おかえりなさい、雄一郎さん!」
 柿渋色の半着と伊賀袴姿の雄一郎は、穂高がいつにもまして嬉しそうなのを見て、はて、今日はなんか祝いごとでもあったのかと首を傾げた。しかし、いつもの居間ではなく奥座敷に向かっているのに気づくとハッとして背筋を伸ばした。

 それからの夕餉はささやかながら今までになく和やかで楽しいものとなった。穂高が行儀見習いとして屋敷で働く傍ら、陣蔵の素読や手習いを教えていることも、雄一郎の忍者道場での真面目な働きぶりも、弓には初めて聞くことばかりだった。

No.44  伊賀隠レ里異聞小説本文


新堂家の憂鬱・四


「俺が何をやっても穂高の両親に許してもらえるとは思えません。日頃の行いの報いでしょう」
 穂高は雄一郎の言葉遣いがいつの間にか丁寧になっていることに気づいた。
(そういえば私の両親に対してもこうだった。荒っぽく見えるけど、本当に根は真面目な人なのだわ……。どうしたらこの人の本当の姿を、父上や母上に分かってもらえるのかしら)
 愛する人が誤解されたまま憎まれる哀しみに、穂高の眼にまた涙が滲んだ。だがその涙を穂高はぐっと飲み込んだ。
(泣いている場合じゃないわ、感情に振り回されないようにしなければ駄目だと今、言われたばかりじゃないの。でも……)

 室内が重苦しい空気に包まれる中、陣蔵がおずおずと手を挙げた。
「父上、どうか俺……私にも、話をさせてください」
 大蔵は黙ってジロリと陣蔵を睨んだが、雄一郎が
「何か良い案があるのか」
 と話を繋いでくれたので、頬を紅潮させて陣蔵は答えた。
「兄者に忍者道場の先生になってもらうんじゃ! 村の皆は知らんじゃろうが、兄者は誰よりも忍術に長けとるし教えるのも上手い。俺は兄者から教わってるから、よく分かっとる。だから道場の先生をやれば、兄者が本当は凄いってことが皆にも分かると思うんじゃ!」
 興奮気味に話す陣蔵の案を、大蔵は一度は
「くだらん」
 と、切って捨てたが、思い直して
「だが、やってみるか」
 と答えた。陣蔵は、
(やるんなら文句言わなきゃいいのに)
 と口を尖らせたが、自分の案が認められたのが嬉しくてにやけるのを抑えられなかった。
(今度は誰も騙していないし、逆に皆に本当のことを教えるんだから、きっと上手くいくに違いないぞ)
 と、陣蔵は自信満々だった。だが、雄一郎は浮かない顔をしていた。
「どうした雄一郎、陣蔵の案は気に入らんか」
 と大蔵が問いかけたので、皆が雄一郎の顔をのぞき込んだ。
「いや、今の俺は選り好み出来る身分じゃない、有難く受けさせてもらいたいと思う。だが、二つばかり条件をつけさせてはくれないか」
「条件ってなんじゃ? 兄者」
 陣蔵は折角の名案にケチをつけられて不満そうな顔をした。穂高もこれは良い話だと思ったので、雄一郎は何が気に入らないのだろうと疑問に思った。雄一郎は逡巡していたが、納得したように頷くと顔を上げて
「まず、指南役は週に二日から。それから、俺はひとつ山から道場に通う。これが俺がこの話を受ける条件だ」
と言い放った。
「ええっ?」
 てっきり屋敷から通うものと思っていた陣蔵と穂高は揃って不満の声を上げ、赤くなってうつむいた。
「して、その訳は」
 大蔵が尋ねた。
「俺に本当に指南役が務まるかどうか、皆に見定めてもらいたい。週に二日から始めて問題なしと認められれば、後は五日でも七日でも構わん」
 納得いかない顔で陣蔵が聞いた。
「なんでわざわざ遠いひとつ山から通うんじゃ、ここからではいかんのか?」
 陣蔵は兄と一緒に暮らせるのを期待していたのだ。それは穂高も同じだった。
「これは、俺を穂高の両親に認めてもらうための修練だからだ。親元からのうのうと通うのでは駄目だ。それに……」
 穂高の方を向いて雄一郎は続けた。
「穂高の両親はお前に会えないのに、俺だけお前と一緒に住むわけにはいかん。だから、道場に出る日も稽古が終わったら山に帰る」
 雄一郎の決意が固いのを知って、穂高も覚悟を決めた。
(会えないのは辛い、だけど雄一郎さんを信じて私も修練に励もう。いつかきっと父も母も分かってくれる、いつかきっと……)
「でも、貴方の修練の進み具合を、一体誰がどう確かめるの?」
 春が疑問を投げかけると、皆は途方に暮れてしまった。

No.43  伊賀隠レ里異聞小説本文


新堂家の憂鬱・三


 服部屋敷に着いた穂高は、雄一郎と共に奥座敷に通され、雄一郎の隣に座って大蔵が現れるのを待っていた。その間も雄一郎は一言も喋らず、ただじっと床を見つめて何かを真剣に考えているようだった。
 程なくして奥の襖戸が開き、大蔵が入ってきた。その後に陣蔵と春が続いた。大蔵が雄一郎の正面に座り、その後ろを回って陣蔵が右手に、春はそのまま大蔵の左手に腰を下ろした。

「つまり、お前はこの娘を、儂に預かってほしいと申すのじゃな?」
 白髪交じりの顎鬚を撫でさすりながら大蔵は言った。神妙な面持ちで雄一郎は頷いた。
「俺は、これまで誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず、独りで生きていく、いける、いかねばならんと考えていた。だがそんなことは、どだい無理な話だったのだと、今日、嫌という程思い知らされた。俺はいつも誰かに助けられて生かされてきた。そんな当たり前のことに気がつくのに、二十五年もかかってしまった……」
「それを教えてくれたのが、その娘か」
 大蔵の言葉に雄一郎は深く頷いた。
「俺は、穂高と一緒になりたいと思っています」
 それを聞いた穂高は喜びに顔を輝かせたが、続く言葉に再び顔を曇らせた。
「だが、このままでは駄目だ」
「何故駄目なんだ、兄者!」
 それまで焦ったそうに聞いていた陣蔵が堪らず口を挟むと、大蔵が一喝した。
「陣蔵は黙っとれ!」
 雷鳴の様な声が障子をビリビリと震わせ、陣蔵は肩を竦めた。
「大人の話に子供が口を挟むな! お前が余計な口出しをしたせいで何がどうなったか、その娘の姿を見てようく反省せい。お前をここに呼んだのはそのためだけじゃ!」
 切り落とされて毛先が鋸刃のようになった穂高の襟足を見て、陣蔵はしょんぼりと項垂れた。
「何がどう駄目なの、雄一郎」
 春が陣蔵の気持ちを受けて代わりに尋ねた。
「俺が不甲斐ないせいで、穂高は親と絶縁してしまった。このまま穂高と一緒になるわけにはいかない」
 穂高が何か言いたげに口を開いたが、それを遮って雄一郎は続けた。
「親が生きていて、いつでも会える場所にいながら、気兼ねなく里帰りも出来ない。そんなことでは穂高を幸せにしてやるとはとても言えない」
「あんな父のことなんて私は……」
 親の話を持ち出されてムッとした穂高が、父への恨み言を口にするのを雄一郎は許さなかった。
「だが、お前の母はどうなる。お前を今日まで大切に育て慈しんでくれた母親の心を踏みにじったままで、お前はいいのか?」
 母と言われて、血の気を失った母の青ざめた顔を思い出した穂高は、父に似て激しやすい自分の性格を呪わしく思った。
「だから俺は、穂高の両親に許しを得られるまで、俺らは一緒になるべきではないと思う」
(そんな日が本当に来るのかしら……)
 穂高の胸は母への罪悪感と、雄一郎と結ばれぬかもしれない不安で張り裂けそうだった。
「それでお前は、この娘をどうすれば良いと思うておる」
 大蔵が尋ねた。雄一郎は、眼に涙をためてそれでも泣くまいと堪えている穂高がいじらしくて、今すぐこの手で抱き締めたいのを必死に耐えて、一呼吸置くと顔を上げて続けた。
「穂高は感情の起伏が激しく、頭に血が上ると後先考えず衝動的になってしまうところがあります」
 それは今の穂高の姿を見れば誰の目にも明らかだった。
「だからこの家で……、父上母上の元で、感情を抑える術すべを学ぶのが良いと思うのです」
 雄一郎がそう言った瞬間、緊張の糸が張り詰めた室内の空気が、ふっと緩むのを穂高は感じた。見ると皆一様に押し黙って考えを巡らしているようだが、どことなく嬉しそうに見えた。
 穂高が不思議そうな顔をしているのに気づいて、大蔵は咳払いをした。
「なるほど、娘はそれで良いかもしらん。だが雄一郎、お前はどうする。娘の両親に認められるために、お前は何をするつもりなのだ」
 そう問われると、雄一郎は唇を噛んだ。
「分かりません」
 と、絞りだすような声で答えた。

No.42  伊賀隠レ里異聞小説本文