No.28
服部雄一郎の過怠・二
その頃、穂高は二人の出会いの場所で独り涙に暮れていた。
一年前、十六歳のくノ一衆の集まりを直前に控えて穂高は悩んでいた。その集まりの日をもって、くノ一の修業は終わり、妻として、母として、女としての修業が始まることに、穂高は違和を感じていた。しかし周囲の女達に訊いても納得のいく答えは得られなかった。
仕方なく独りで考えようと、穂高は村の者も滅多に近づかない「おづの山」に入った。すると、山間から幽かに刃が打ち合うような音がした。その音に誘われるように、穂高が峡谷の奥へ奥へと進んでいくと、そこに一日の修業を終えて滝に打たれている雄一郎がいたのだった。
突然目の前に褌ひとつの男が現れたので、穂高は驚きの余り泣き叫んでしまった。だが、男はそんな穂高に半ば呆れながらも、親切に村境まで送り届けてくれた。途中で足を滑らせた時も軽々と抱きとめて助けてくれたのに、一言の礼も言ってないと気づいて穂高が振り向いた時には、もうそこに男の姿はなかった。
村に帰って探ると、すぐに男が服部家の長男の雄蔵だということが分かった。翌日、穂高は雄蔵に昨日のお礼を言おうと峡谷に押しかけたが、こんなところに女子供がひとりで来るなと叱られ追い返されてしまった。しかし、その時、自分の名は雄蔵ではなく雄一郎だと教えてくれた。それから穂高の胸の内で、雄一郎の存在が日に日に大きくなっていった。
突然現れた娘はまだ十六で、陣蔵と大差ない子供じゃないかと雄一郎は思っていた。こんなところにお前のような娘がひとりで来るもんじゃないと言っては追い返していたが、それでもちょくちょく顔を見せに来る穂高を、雄一郎も次第に心憎からず思うようになっていった。しかし、褌姿に興奮して癇癪を起こすようではまだまだ子供だ。男衆や、くノ一衆の集まりには意味があるのだな、などと思ったりもした。
そんな小娘が、外れ者の自分を床親にしたいなど、親が反対するのは当然で、もし俺がお前の親でも同じことを言うと叱りつけた日もあった。だが、なんやかんやと丸め込まれて引き受けてしまった。引き受けたからには大人としてきちんと務めを果たさねばならぬ。儀式が終われば穂高は誰かの元へ嫁ぐのだろう。そうなればもう顔を合わせることもなくなる。寂しくないと言えば嘘になるが、元の静かな生活に戻るだけだ――
穂高とのそう多くもない思い出を振り返るうちに、雄一郎は、ゆうべ穂高に名前を呼ばれて激しく動揺したのは、床親の義務を果たしているだけのつもりでいた自分が、心の底では穂高を愛おしく思い、自分も穂高にそう思われたいと願っていたからだと気がついた。穂高を帰した後も穂高の声が耳から離れず、心は千々に乱れ、強烈な思慕の念が募るのを、抱いた女への未練だと誤魔化して、日常に戻らねばと友人の元を訪ねたが、そこで穂高の真意を知らされ愕然とした。自分の愚かさが心底情けなかった。しかし穂高が家に帰っていないと聞いた瞬間、一も二もなく駆け出していた。
(探さねば、見つけねば、もうこの手に抱くことは二度と叶わぬ望みだとしても、己の心を伝えねば。だから穂高、早まらないでいてくれ――)
雄一郎は心の中で穂高の名を祈るように呼び続けた。
No.28
2015.5.3
伊賀隠レ里異聞
|
小説
|
本文
27
|
29
はじめに
1
伊賀隠レ里異聞
117
小説
21
本文
18
SHINOBINO LABO
22
キャラクター設定集
17
美術設定集
3
イラスト集
1
NIJI×NIJI
28
日高氏がやって来た!の巻
7
ヒトツヤマ・イン・トーキョー
1
なんかいろいろ
15
前世紀の遺物
2
風の音にぞ
2
邪鬼賀大戦
12
グリンの星
5
ハイスクール!
26
カスタムキャスト!
61
ムービー
21
サウンド
3
その頃、穂高は二人の出会いの場所で独り涙に暮れていた。
一年前、十六歳のくノ一衆の集まりを直前に控えて穂高は悩んでいた。その集まりの日をもって、くノ一の修業は終わり、妻として、母として、女としての修業が始まることに、穂高は違和を感じていた。しかし周囲の女達に訊いても納得のいく答えは得られなかった。
仕方なく独りで考えようと、穂高は村の者も滅多に近づかない「おづの山」に入った。すると、山間から幽かに刃が打ち合うような音がした。その音に誘われるように、穂高が峡谷の奥へ奥へと進んでいくと、そこに一日の修業を終えて滝に打たれている雄一郎がいたのだった。
突然目の前に褌ひとつの男が現れたので、穂高は驚きの余り泣き叫んでしまった。だが、男はそんな穂高に半ば呆れながらも、親切に村境まで送り届けてくれた。途中で足を滑らせた時も軽々と抱きとめて助けてくれたのに、一言の礼も言ってないと気づいて穂高が振り向いた時には、もうそこに男の姿はなかった。
村に帰って探ると、すぐに男が服部家の長男の雄蔵だということが分かった。翌日、穂高は雄蔵に昨日のお礼を言おうと峡谷に押しかけたが、こんなところに女子供がひとりで来るなと叱られ追い返されてしまった。しかし、その時、自分の名は雄蔵ではなく雄一郎だと教えてくれた。それから穂高の胸の内で、雄一郎の存在が日に日に大きくなっていった。
突然現れた娘はまだ十六で、陣蔵と大差ない子供じゃないかと雄一郎は思っていた。こんなところにお前のような娘がひとりで来るもんじゃないと言っては追い返していたが、それでもちょくちょく顔を見せに来る穂高を、雄一郎も次第に心憎からず思うようになっていった。しかし、褌姿に興奮して癇癪を起こすようではまだまだ子供だ。男衆や、くノ一衆の集まりには意味があるのだな、などと思ったりもした。
そんな小娘が、外れ者の自分を床親にしたいなど、親が反対するのは当然で、もし俺がお前の親でも同じことを言うと叱りつけた日もあった。だが、なんやかんやと丸め込まれて引き受けてしまった。引き受けたからには大人としてきちんと務めを果たさねばならぬ。儀式が終われば穂高は誰かの元へ嫁ぐのだろう。そうなればもう顔を合わせることもなくなる。寂しくないと言えば嘘になるが、元の静かな生活に戻るだけだ――
穂高とのそう多くもない思い出を振り返るうちに、雄一郎は、ゆうべ穂高に名前を呼ばれて激しく動揺したのは、床親の義務を果たしているだけのつもりでいた自分が、心の底では穂高を愛おしく思い、自分も穂高にそう思われたいと願っていたからだと気がついた。穂高を帰した後も穂高の声が耳から離れず、心は千々に乱れ、強烈な思慕の念が募るのを、抱いた女への未練だと誤魔化して、日常に戻らねばと友人の元を訪ねたが、そこで穂高の真意を知らされ愕然とした。自分の愚かさが心底情けなかった。しかし穂高が家に帰っていないと聞いた瞬間、一も二もなく駆け出していた。
(探さねば、見つけねば、もうこの手に抱くことは二度と叶わぬ望みだとしても、己の心を伝えねば。だから穂高、早まらないでいてくれ――)
雄一郎は心の中で穂高の名を祈るように呼び続けた。