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No.33

服部雄一郎の過怠・七


 どれくらいの時間が経っただろうか。静寂は突然の怒声に破られた。穂高の父、少太郎だった。その後ろから輝之と、穂高の母の弓が現れた。弓は穂高の顔を見ると安心して気が抜けたのか、その場にへなへなとへたり込んだ。
「さあ、いまこそ責任を取ってもらおうか」
 怒りで顔を歪ませた少太郎は、肩で息をしながら手にした刀の切先を雄一郎に向けた。雄一郎は少太郎を真っ直ぐに見つめると居住まいを正し、ゆっくりと膝をついた。そして、その場に正座すると懐から飛苦無を取り出し、衿をぐいと開いて腹を露わにした。
「見ておれ穂高、お前と新堂の名を穢した『外れの雄蔵』を、この父が成敗してくれる」
 そう言うと、少太郎は刀を大上段に構えた。
「やめて! そんなことをするなら、私はここから身を投げます!」
 穂高はそう叫んで足場の悪い木の上に立ち上がった。穂高の母が小さく悲鳴をあげ、少太郎が一瞬怯んだ。すかさず輝之が二人の間に割って入り、二人の刃物を持った腕をがっちりと掴んだ。
「父上は間違っています。新堂の名を穢したのはこの私です。何故なら、私が、二人を騙して、床親の契約を結んだのですから」
 穂高の告白に、少太郎は色をなした。
「得てもいない許しを得たと偽って、それを盾に契約を迫ったのは私なのです」
 雄一郎の背中を見つめる穂高の目に涙が浮かんだ。
「愚か者が、だがそれも『外れ』の入れ知恵なのだろう、何処までも卑劣な奴め!」
 怒りと恥辱に唇を震わせ少太郎が吐き捨てるように言った。

「お待ちなさい」
 背後から女性の声がした。振り向くと服部春が東海林忍に手を引かれて、そこに立っていた。
「二人とも、まずはその刀を鞘に収めてはくれませんか。この伊賀の里で刃傷沙汰が起きるのを、私は見過ごすわけには参りません」
 穏やかな口調で春が呼び掛けた。が、少太郎は頑として譲らなかった。
「お言葉ではございますが、我が家名が彼奴の為に穢されたのは明白な事実。例え契約が娘の嘘によるものだとしても、それを見抜けなかったこの男に、罪がないと言えましょうか。腹違いとはいえ、大蔵様の御子を庇いたいお気持ちは、親として分からんでもありません。だが、私にも家長として守らねばならんものがあります!」
 まずいな、と雄一郎は思った。
(このままだと父親の言葉に刺激されて穂高が早まりかねない。滑りやすいこの場所で、あの高さから飛び降りる穂高をどう助けるか。俺はどうなっても構わんが、穂高は絶対に守らねば)
 雄一郎は顔を伏せたまま皆に気付かれぬよう辺りを伺い、いざという時の行動を頭の中で繰り返し反芻していた。

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