ホームに戻る

本文

服部雄一郎の過怠・七


 どれくらいの時間が経っただろうか。静寂は突然の怒声に破られた。穂高の父、少太郎だった。その後ろから輝之と、穂高の母の弓が現れた。弓は穂高の顔を見ると安心して気が抜けたのか、その場にへなへなとへたり込んだ。
「さあ、いまこそ責任を取ってもらおうか」
 怒りで顔を歪ませた少太郎は、肩で息をしながら手にした刀の切先を雄一郎に向けた。雄一郎は少太郎を真っ直ぐに見つめると居住まいを正し、ゆっくりと膝をついた。そして、その場に正座すると懐から飛苦無を取り出し、衿をぐいと開いて腹を露わにした。
「見ておれ穂高、お前と新堂の名を穢した『外れの雄蔵』を、この父が成敗してくれる」
 そう言うと、少太郎は刀を大上段に構えた。
「やめて! そんなことをするなら、私はここから身を投げます!」
 穂高はそう叫んで足場の悪い木の上に立ち上がった。穂高の母が小さく悲鳴をあげ、少太郎が一瞬怯んだ。すかさず輝之が二人の間に割って入り、二人の刃物を持った腕をがっちりと掴んだ。
「父上は間違っています。新堂の名を穢したのはこの私です。何故なら、私が、二人を騙して、床親の契約を結んだのですから」
 穂高の告白に、少太郎は色をなした。
「得てもいない許しを得たと偽って、それを盾に契約を迫ったのは私なのです」
 雄一郎の背中を見つめる穂高の目に涙が浮かんだ。
「愚か者が、だがそれも『外れ』の入れ知恵なのだろう、何処までも卑劣な奴め!」
 怒りと恥辱に唇を震わせ少太郎が吐き捨てるように言った。

「お待ちなさい」
 背後から女性の声がした。振り向くと服部春が東海林忍に手を引かれて、そこに立っていた。
「二人とも、まずはその刀を鞘に収めてはくれませんか。この伊賀の里で刃傷沙汰が起きるのを、私は見過ごすわけには参りません」
 穏やかな口調で春が呼び掛けた。が、少太郎は頑として譲らなかった。
「お言葉ではございますが、我が家名が彼奴の為に穢されたのは明白な事実。例え契約が娘の嘘によるものだとしても、それを見抜けなかったこの男に、罪がないと言えましょうか。腹違いとはいえ、大蔵様の御子を庇いたいお気持ちは、親として分からんでもありません。だが、私にも家長として守らねばならんものがあります!」
 まずいな、と雄一郎は思った。
(このままだと父親の言葉に刺激されて穂高が早まりかねない。滑りやすいこの場所で、あの高さから飛び降りる穂高をどう助けるか。俺はどうなっても構わんが、穂高は絶対に守らねば)
 雄一郎は顔を伏せたまま皆に気付かれぬよう辺りを伺い、いざという時の行動を頭の中で繰り返し反芻していた。

No.33  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・六


 切り立った岩壁に挟まれた渓谷を流れる川を遡り、噛み合う歯車のように入り組んだ谷を抜けると、いきなりポカンとした空間が広がる。その突き当たりに滝はあった。白い布を垂らしたように落ちる水は、滝壺に青く溜まり川下へ流れていく。
 普段なら難なく通る苔むした岩に何度も足を取られながら、雄一郎はようやくその場所に辿り着いた。
「穂高!」
 雄一郎は叫んだ。
「穂高!」
 川縁に穂高の姿はない。
「穂高!」
 今一度高く叫んだ。川面で何かが跳ねる音がした。音の方向へ顔を向けると、雄一郎は滝壺へ飛び込んだ。

 泣きじゃくっていた穂高の耳に、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして辺りを見回すと遠く眼下に雄一郎の姿があった。雄一郎が再び名を呼んだ。思わず穂高は息を潜めた。三たび雄一郎が名を呼んだ。掠れた叫び声が谷間にこだました。と、突然雄一郎が滝壺へ飛び込んだ。潜って潜って浮かび上がってこない。恐ろしくなって声をあげようとした時、雄一郎が水面に顔を出した。が、二、三度息を整えるとまた潜ってゆく。さっきよりも潜る時間が長い。穂高が沈黙に耐え切れなくなる頃、再び雄一郎が浮かび上がってきた。肩で大きく息をして三たび潜ろうとした時、ついに穂高は叫んだ。
「雄一郎さん!」
 その声に弾かれるように上を見上げた雄一郎の目に、岩壁から横に突き出すように伸びた木の幹に小鳥のように座っている穂高の姿が入った。
(良かった、生きていた……)
 険しかった雄一郎の顔に安堵の表情が浮かんだ。ゆっくりと川から上がった雄一郎は、濡れた顔を拭おうともせず、ただ眩しげに穂高を見上げていた。穂高の真っ赤に泣きはらした目を見て、その悲しみを思うと言葉がなかった。穂高もずぶ濡れになった雄一郎の姿を見て、その胸の内の苦しみを思うと声が出なかった。そうして長い間、一言も発せず、ただ互いにじっと見つめ合っていた。

No.32  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・五


 その頃、東海林輝之の妻、(しのぶ)は村へ急いでいた。夫の友人がとんでもない失態を冒したので、服部家の奥方の春に取りなしを頼んでくるよう夫に命じられたのだ。しかし村人に気取られて騒ぎにならぬよう、あくまでも平静を装いつつ、慌てず静かに大至急という難しい要求だった。それでも忍びの女らしく素知らぬ顔で村に入ると、ちょっとお使いに参りましたとでもいう風に服部家の玄関に入り、御免くださいと声をかけた。やがて現れた春の姿を確認すると、忍はひれ伏して夫に受けた命を春に伝えた。
 ――夫の友人でもある、ご子息の服部雄一郎様が、新堂家の一人娘と床親の契約を結ばれたのですが、娘側からの床親指名が遠回しな求婚の申し込みだと知らなかったらしく、床入儀が済んだ娘を親元に帰してしまったので、親が家と娘を辱められたと激昂し仇討ちに乗り込んできました。夫からその意味を知らされた雄一郎様は、両家の面目を立てんがために切腹して責任を取ると仰るのですが、帰した娘が行方知れずになったと聞き、ひとまず娘を探しに行っております。夫は立会人として付き添いながら、即座にことが成されぬよう両者を見張っていますが、このままでは流血沙汰は必至と見て、私に春様にお取りなしを頼むようにと、そう申し使って参りました――

 話を聞いた春は青ざめた。世間知らずの雄一郎が、いつか取り返しのつかない失敗をしでかすのではないかと常日頃から案じていたが、遂にそれが現実のものとなってしまった。とにかく、大事になる前に何とか収めねばならぬ。だがどうしたら良いものか……。
 思案する春の背後から、話を盗み聞きしていた陣蔵が真っ青な顔で現れた。陣蔵は、兄と結ばれてほしくて新堂穂高に入知恵をしたのは自分だと白状した。子供のくせに小賢しい真似を、と腹を立てる春だったが、今はそれを咎めている時間はない。春は奥の部屋で手早く身支度を整え、忍の案内でひとつ山へ向かった。この伊賀の里で、家同士の揉め事から死者が出るようなことは決してあってはならぬ、何としても両者を止めなくては。春は足を速めた。

No.31  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・四


「兄者……いえ、兄の肺病はとうの昔に治っています。今、兄の側に行っても、風邪の一つも貰えやしないでしょう」

 雄一郎をよく知る者の話が聞きたいと言って、忍者道場に自分を訪ねてきた穂高に、弟の服部陣蔵(じんぞう)は力強く答えた。兄の話を聞きにくる者はたまにいるが、その殆どは冷やかしだった。でも、この人は違うようだ。そう思った陣蔵は、母に聞いた雄一郎の生い立ちを、穂高に話しはじめた。

 雄一郎は元の名を雄蔵(ゆうぞう)と言い、陣蔵とは十一違いの異母兄だった。

 雄蔵の母・志乃(しの)は、雄蔵が三つの時に肺病を患い、夫の大蔵(だいぞう)が村外れのひとつ山に建てた屋敷に隔離された。伊賀の里で肺病は不治の病で、村に感染者が拡がるのを防ぐためには、それしか方法がなかったのだ。
 志乃は雄蔵が五つの時に亡くなった。しかし今度は雄蔵に肺病の兆候が現れた。大蔵はこの伊賀の里の長として、幼い雄蔵を独り、ひとつ山に住まわせざるを得なかった。
――この時、病に伏せった志乃や雄蔵の面倒を見ていたのが、後の服部(はる)である。雄蔵は、母と自分は捨てられたのだと父を恨んでいたが、春に対しては素直に好意を寄せていた――
 幸いにして雄蔵の病状は軽く、一年後には治癒に至った。だが、雄蔵は村に戻ることを拒んだ。父を思い出す「蔵」の文字を嫌い、雄一郎と名前を変え、以来ずっと独りでひとつ山に住んでいるのだった。
 志乃の三回忌が済むと、大蔵は春を後妻として迎えた。その五年後に陣蔵が生まれた。雄一郎は数え十二歳になっていた。歳の離れた弟を雄一郎はとても可愛がった。だが、かつての病への不安から、余り側へ近寄らせようとはしなかった。

「兄は確かに強情でへそ曲りですが、根は真面目で優しい男です。けれども、兄は父を許さず、村の者とも決して交じり合おうとはしません。それは、この里で生きながらにして死んでいるようなものです」
 陣蔵の言葉には兄への敬愛とその孤独を案ずる気持ちが感じられた。この人になら本音を話せると穂高は思った。
「私は、雄一郎さんに床親になってもらいたいと考えています。いえ、本当は……私、あの人と一緒になりたいんです」
 床親と聞いて陣蔵は首まで真赤になった。

 雄一郎のことで陣蔵と意気投合した穂高は、二人で策を練り、家名に拘る父親には服部家の名を、真面目な雄一郎には親の面目を出しにして床親の契約を結ばせようと企んだのだった。けれども、そんな浅はかな策略で得たものはなんだったろうか。愛する人と両親を欺いた結果がこの様だ。床親が床娘に未練がましく付きまとって揉めることも珍しくないのに、雄一郎は最後まで誠実だった。そして儀式が終わると情に溺れることなく自分を家に帰した。それだけに、結ばれてしまえば何とかなると考えた自分の浅ましさが恥ずかしく、惨めだった。
(私は間違っていた。例え一生結ばれなくても、真っ直ぐに想いを告げるべきだった。でももう遅い、両親は家名に泥を塗った私を許さないだろうし、雄一郎さんは床親の義理を守り通すため、二度と私の前に姿を現すことはないだろう。なにもかも終わりだわ……)
 絶望で目の前が真っ暗になった。

No.30  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・三


 床親になってほしい。雄一郎にそう告げた穂高は、顔こそ平静を装っていたが、口の中は緊張でからからに乾いていた。

 くノ一衆の集まりを終えて、両親は自分を嫁がせる準備にいよいよ本腰を入れ始めた。嫁入り修業を始めた穂高が、簡単な単衣から複雑な袷も仕立てられるようになる頃には、見合いの申し込みは山となり、床入儀は誰に任せようかという話しも聞こえてくるようになった。
 そんな話が噂になっているのか、外を歩くと時折チラチラと、或いはあからさまに、品定めでもするように自分を見ている男たちがいるのが堪らなく嫌だった。友人の中には床入儀を済ませた者や、嫁ぎ先の決まった者も出てきた。遅かれ早かれ自分もそうやって女になっていくのだろう。頭では理解しても、心の奥底では納得出来ずにいた。
 床入儀は、十三詣り、十六のくノ一衆の集まりを経た里の娘たちが、女になるための最後の儀式だ。親類筋の既婚男性か村の有力者が床親となり、褥を重ねて女となるのだ。床親は床娘の後見人となり、他家へ嫁いだ後も長く面倒を見てくれる大切な存在だ。家柄は勿論、人柄も重要とされる。既婚の男なら誰でも良いというものではないことも、くノ一衆の集まりで習って知っていた。それでも……と、穂高は思っていた。

 そんなある日、見合い相手の釣書状を品定めしていた父親が、
「どの男も帯に短し襷に長しだな」
 と、こぼした。
「我が新堂家の娘ともなれば、中忍程度の家には出せぬ。やはり上忍級の家でなければ」
 父親の家名への拘りを、穂高は冷めた目で見ていた。
(家名なんて、この狭い里の中でしか通用しないものなのに。それに、新堂家は今でこそ名のある家だけれど、元は下忍の出。偉大なご先祖を誇りに思う気持ちは分かるけど、父上は虚栄心が強すぎる……)
 穂高はそう思っていた。
「来年には服部の嫡男が十五になるな。いっそのこと、それまで花嫁修業に専念させるか」
 服部の名を耳にして穂高はカッとした。
「陣蔵さんは三つも年下だわ!」
 本当は年の差など関係なかった。姉さん女房を貰って幸せに暮らしてる人も多い。だが服部と言っても私が好きなのは……
「私、雄一郎さんがいい……」
 うっかり口を滑らせ、穂高はしまったと思った。案の定、父は激怒した。
「あんな、弟に家督を取られた出来損ないが良いだと? 正気か!? あんな外れを床親にしてみろ、新堂の一人娘はとんだ物好きだと笑い者にされるわ!」
 吐き捨てるようにそう言うと、父は手にした釣書状をぶちまけた。知りもしないでよくもそんな酷いことを、と穂高は思った。しかし母にまで
「あの方はもう二十五だというのに、未だ嫁を貰う気配さえないのよ。肺病持ちとも聞くし、殿方として問題があるのではないかしら、そんな人に責任の重い床親が務まるとは思えないわ」
 と反対され、穂高は落胆した。しかし、どうしても合点がいかなかった。
(あんなに逞しい方が今も肺を病んでいるとは思えない。父も母も村の衆も、誰も雄一郎さんの本当の姿を知らないんだわ。でも、ひとりくらい知ってる人がいるはずよ……)
 穂高は焦燥感に駆られていた。

No.29  伊賀隠レ里異聞小説本文