新堂家の憂鬱・一
おづの山の床入儀騒動から半年ほど経ったある日、『新堂武術道場』の門前に、伊賀の里の長であり、雄一郎と陣蔵の父でもある服部大蔵の姿があった。
大蔵が門をくぐると、所在無さげに庭を掃く男がいた。男は大蔵の姿を見ると慌てて駆け寄り、膝をつくと
「恐れながら、主あるじはただいま留守にしております。御用件はこの私めにお申しつけくださりますれば、後々主に伝えます故……」
と言って頭を下げた。ところが言い終わらぬうちに
「おい清士郎、酒がないぞ!」
と、道場から声がしたので、清士郎と呼ばれた男の額に脂汗が浮かんだ。大蔵はホッホッホッと笑うと、
「主はたった今、帰ったようじゃな、では上がらせてもらうぞ」
と言って道場へ向かった。その背を見送ると清士郎は、
「姉上、姉上!」
と呼びながら母屋へ走っていった。
娘に縁を切られてからの穂高父、新堂少太郎は最悪であった。
(手塩にかけ育てた一人娘が、よりによって『外れの雄蔵』なんぞにたぶらかされて、その気になって床親娘の契りなんぞを結んだ挙句、弄ばれて捨てられたんだぞ。あの外れ野郎は「床娘は必ず親元に返すものだと思ってた」とかなんとか抜かしやがったが、そんな空々しい嘘を間に受けるほど俺は馬鹿じゃねえ。百ぺん切り刻んだって気が済まないってのに、娘は騙されたとも知らんで、髪を落として「俺とは親子の縁を切る」などと言う、そんな馬鹿な話があるか。虚しい、俺の人生は一体何だったんだ……)
そして少太郎は酒に溺れた。はじめは宵のうちだけだったのが、次第に日暮れ前から呑み始め、終いには日がな一日呑んだくれるようになった。道場の稽古も疎かになり、呆れた門下生は一人減り、二人減り、今では妻の弟、清士郎ただ一人が残るばかりだった。
(ああ面倒くせえ、いっそ道場に火でも放って死んじまおうか)
稽古場の真ん中にゴロリと横になった少太郎が、空になった徳利を弄びながら、そんなことをぐだぐだ考えていると、
「昼間から寝酒とは豪勢じゃのう」
と、上から声がした。顔を上げると、墨をたっぷり含んだ筆で力強く書いた八の字のような口髭が少太郎を覗き込んでいた。
「ほほう、これはこれは村長殿、こんなむさ苦しい所へようこそ。と言っても、今や人っ子ひとりおらず、小ざっぱりとしたもんですがな」
酒臭い息をまき散らしながら少太郎は大蔵に食ってかかった。
「して、今日は如何なる御用件ですかな」
(こいつの出来損ないの倅が、俺の自慢の娘をかどわかしやがったんだ。あんな肺病み上がりのろくでなしを何でのさばらせておいた。臥せってるうちに首を捻ってあの世に送ってやりゃあ良かったんだ。そうすりゃ、あの野郎が由緒正しいあんたの家に泥を塗ることもなかったろうし、俺の娘が食い物にされることもなかったんだ。畜生、畜生……!)
少太郎の目がみるみる据わっていくのを見て、大蔵はふんとため息をついた。
(今日はこの男を呼ぶのは無理じゃな。仕方ない、女房だけにしておこう)
「お主の門下生が近頃のお主を憂いておったでの、ちいと覗いてみたんじゃが。酒はほどほどにしておかんと身を持ち崩すぞ」
そう言って大蔵は少太郎に背を向けた。
少太郎の頬が怒りでぴくぴく動いた。腹の奥底から煮え滾るような怒りがふつふつと沸き上がり、少太郎は声を荒げた。
「誰れの所為でこうなったと思っていやがる、みんなてめえのどら息子の所為だろうが!」
怒りで声が上ずった。こめかみに太い青筋を立て、目を鬼のように吊り上げた少太郎は、よろよろと立ち上がると大蔵に掴みかかろうと手を伸ばした。
服部雄一郎の過怠・十
「雄一郎を、服部家の人間として恥ずかしくないよう鍛え直します。それを見てから二人を許すか許さないか、御沙汰をお決めになるわけには参りませんでしょうか」
春の提案を聞いた少太郎は鼻で笑った。
「服部家の人間として鍛え直す? それはつまり雄蔵殿を服部家の家督を継ぐに相応しい男にするということですかな? 仮にそうなったとしても、雄蔵殿に家督を継がせられますかな? 出来ますまい。そんなおためごかしに私が納得するとでも思ったか。それこそ女の浅知恵と言うもの」
少太郎の厳しい言葉に、春は二の句が継げなかった。
「私が服部家の家督を継ぐに相応しい人間になれば、私の過ちを許していただけるのでしょうか」
代わりに雄一郎が言葉を続けた。
「ならば、私は……」
少太郎は訝しげに雄一郎を見た。しかし先程とは異なり、雄一郎の顔には明らかに苦渋の色が滲んでいた。
(命や名誉を失うことよりも、父親に頭を下げて実家に出戻ることの方がこの男には苦痛らしい。苦しまぬ贖罪を与えてもなんの慰めにもならんが、これならば……)
「貴方、もう止してください」
弓が雄一郎の答えを遮った。
「そんなことをして、後で痛い目を見るのは貴方なのですよ。それにさっきご自分でも仰ったでしょう、何をやっても結局は娘を失うことになるのだと」
これまで気を失っているだけだった妻に、ぐうの音も出ない正論を吐かれて少太郎はがっくりと肩を落とした。
「帰りましょう貴方。春様、夫の度重なる無礼をどうかお許しくださいませ」
深々と頭を下げて一礼すると、弓は少太郎を支えるように谷を後にした。残された者は皆一様におし黙って帰路についた。
ひとつ山の麓に着くと、雄一郎は輝之と忍に厚く礼を言い、二人とはそこで別れた。そして三人は服部屋敷へ向かった。
春は穂高のざんぎりになった頭を、縮緬の風呂敷で頭巾のように覆い隠した。黄八丈に頭巾の藤色がよく映えて、美しいと雄一郎は思った。
村に入ると奇妙な三人組は否応無く村人の好奇の目に晒された。春が先立ち、その後について雄一郎と穂高が並んで歩く姿は、どう考えても訳ありな二人を春がしょっぴいているようにしか見えなかったので、家に着く頃には野次馬で人だかりが出来ていた。
屋敷に着いて玄関に入ると、上がりに腰を掛けて待っていた陣蔵の顔がパッと明るくなった。しかし、穂高が頭巾代わりの風呂敷を取ると、うつむいて唇を噛んだ。
続く
服部雄一郎の過怠・九
雄一郎は少太郎の前に手を突くと己の非礼を心から詫びた。
「私の様な不逞の輩の言葉など、信じてはもらえませんでしょうが、私は決して御息女を辱めるつもりでお返ししたのではありません。御息女に相応しい、然るべき方との婚儀が先にあると思ってお返ししたのです。私は真剣にその一助としての役目を果たしたつもりでおりました。しかし、それが斯様な事態を招くとは夢にも思わず、己の未熟さを深く恥じ入るばかりです。斯くなる上は、如何なる責めをも負う覚悟にございます。どうぞ御沙汰を。」
毒気を抜かれた少太郎は、雄一郎に虚ろな眼差しを向け、ぼそりといった。
「失せろ」
「分かりました」
「二度と娘に近づくな」
「決して」
「死んでしまえ」
「はい」
命じるたびに蒼白になってゆく娘の顔と、雄一郎を交互に見比べ、少太郎は地面に視線を落とし、
「そうして結局、俺は娘を失うのだな……」
と、弱々しく呟いた。
「生きるも死ぬも好きにしろ、穂高とは……もう親子の縁は切れておる」
少太郎はよろよろと立ち上がると気を失っている弓の頬を軽く打って起こし、
「帰るぞ」
と言って雄一郎らに背を向けた。
「新堂殿、いま少し待ってはいただけませんか」
春が口を開いた。
「このまま親子が別れてしまっては、余りにも惨いではありませんか。息子の失態は母である私にも責任があります、どうか、いましばらく時間をお与えくださいませ」
「時間?」
春の言葉に、少太郎は目を眇め振り返った。
服部雄一郎の過怠・八
「父上、貴方という人は!」
果たして、穂高は激昂した。
「二言目には家名、家名と言うけれど、人をそのように愚弄して憚らない厚顔無恥こそ、家名に恥ずべき行為なのではありませんか!? 私は、恥ずかしい!」
娘に痛烈に批判され、少太郎も逆上した。
「黙れ、この恥知らずが! 俺はお前をそんなふしだらな女に育てた覚えはないぞ!」
こうなってくるともう売り言葉に買い言葉である。
「上等です、父上。最早、親でもなければ子でもありません。今日を限り、私は貴方と親子の縁を切ります!」
そう言うや否や、穂高は懐から小刀を取り出して、後手に掴んだ髪を元結からぶっつりと切り落とした。弓が卒倒し、忍が駆け寄った。
「これで新堂家に汚名を被せた人間は居なくなったはずです。それでもまだ雄一郎さんを斬ると言うのなら、私も腹を斬ります!」
穂高は断ち切った髪を投げ捨てて啖呵を切った。
敵わんな……と雄一郎は思った。俺はもうこいつには一生頭が上がらんかもしれん。だがそれも良いだろう、いや、それが良い。
父と娘の容赦ない罵り合いに皆が呆気に取られる中、雄一郎は輝之に目配せすると、もう大丈夫だと口の動きで伝えた。輝之は小さく頷き、掴んでいた雄一郎の腕を、そっと離した。雄一郎は手にした飛苦無を懐に戻し、消えるようにその場から離れると、音もなく岩壁を這い上がり、頭に血が上って我を失った穂高の脇についと立って、その手から刃物を取り上げた。
「もうその辺にしておけ。でないと、お前より先にお前の母親が息絶えてしまうぞ」
そう言って雄一郎はすうっと指を差した。その指の先に失神した母を見た穂高は、たちまち色を失った。
「輝之、縄!」
雄一郎は輝之に縄を求めた。我に返った穂高は自分のしたことが急に恐ろしくなって身体が硬直してしまい、連れて壁を降りることは難しかった。おう、と応えて輝之が雄一郎の足元へ鉤縄を巻きつけた。
「助かる」
そう言うと、雄一郎は穂高の腰をしっかり抱き寄せ、器用に縄を伝って地面へ降り立った。少太郎もまた先程までの気勢をそがれ茫然自失の態であった。輝之は
「もう良いですな?」
と声を掛けると、少太郎の手から刀を取り上げ鞘に収めた。少太郎の手は力無く地べたに垂れた。
「義兄上! おやめください!」
少太郎の手が大蔵に届くより早く、駆け込んできた清士郎が素早く少太郎を羽交い締めにした。
「貴方! いい加減になさいまし!」
後から女房の弓が青くなって飛び込んできて、大蔵の前に平伏した。
「大蔵様! 主人の度重なるご無礼、何卒、何卒お許しくださいませ!」
大蔵に平身低頭する妻を見て、少太郎はさらに激昂した。
「馬鹿野郎! 人でなしの親に媚びへつらいやがって! お前は俺の娘がこいつの息子にどんな目にあわされたのか忘れたのか!? お前も人でなしか! このど阿呆! 恥知らず! 阿婆擦あばず……」
姉を侮辱する言葉に我慢できなくなった清士郎が、堪らず少太郎に送り襟絞えりじめを掛けた。泥酔していた少太郎は一瞬で落ちた。
「大分荒れた生活をしている様じゃの」
崩れ落ちた少太郎を見つめて涙する弓に、大蔵が声をかけた。
「お恥ずかしい姿をお見せして、申し訳ありません」
少太郎を抱き上げ、道場を出て行く清士郎を目で追いながら、弓は夫の非礼を詫びた。
「娘が出て行ってから、ずっとあの調子で。門下生たちも呆れて粗方辞めていってしまいました……」
泣き暮らしてすっかりやつれた弓は、荒んだ生活を続ける夫に疲れて、つい当て付けがましいことを口にしたのを恥じてうつむいたが、おずおずと顔を上げて
「あの、今日は一体何の御用でしょうか」
と大蔵に尋ねた。
「うむ」
大蔵は口髭の下に蓄えた筆のような顎鬚を撫で付けると、おもむろに用件を切り出した。
「今日の暮れ六つ前に、お主だけ身一つで屋敷に来てほしい」
それが大蔵の用件だった。それ以外の説明は一切なかった。
(そんな時刻に何故私が、一体何のために?)
疑問は尽きなかったが、村長むらおさである大蔵の命とあらば行かねばなるまい。藤鼠の色無地に生成りの絽綴れの帯を締め、弓は家を出た。夫を残して出かけるのは不安だったが、清士郎が自分が見ているから大丈夫だ、と言ってくれたので、帰るまで夫を頼むことにした。七つ下がりの刻に出れば、暮れ六つ前には屋敷に着く。
九月に入ってもまだまだ暑い日が続いていたが、風は幾分涼しさを感じるようになってきた。それでも西日を避けて日陰を選んで歩く自分が、文字通り日陰者になったように思えて、弓は気が滅入った。そうこうするうちに、約束の時間より少し早く屋敷に着いてしまった。
(早く着けば用も早くに終わるだろう、目が覚めたら、あの人はまた酒に溺れるし、弟に甘えてばかりもいられない……)
そんなことを考えながら、弓は門をくぐり、
「御免くださいまし、新堂でございます」
と挨拶した。すると思いもよらない言葉が返ってきた。
「母上!」
懐かしい声がして若い娘が弓の首にかじりついてきた。
「えっ!?」
弓の首に回した腕をほどいて目の前に立っていたのは、一日とて忘れたことのない愛娘だった。
「ああ貴女、もっと顔をよく見せて頂戴!」
弓は両の手で穂高の頬を挟み、まじろぎもせず見つめた。あの日、元結から無残に切り落とされた髪は、綺麗に切り揃えられ、今や肩に届こうとしていた。
「穂高、穂高! ああ、私の娘!」
溢れる涙を拭いもせず、今度は弓が穂高を強く抱きしめた。
「さあ母上、もう泣くのはこのぐらいにして、あがって頂戴」
穂高はまるで勝手知ったる我が家のように弓を中へ招いた。
「お前、これは一体どういうことなの? 何故お前がここに、いつからいるの? どうして大蔵様が私を呼びに、わざわざうちまで来たの?」
二度と会えないと思っていた娘との再会に喜びながら、弓は矢継ぎ早に疑問を投げかけた。
「一度に全部は無理よ母上、ひとつずつ話すわ」
母の手をしっかり握りしめ、穂高はこれまでの経緯を話し始めた。