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No.45

新堂家の憂鬱・六


 楽しい時はあっという間に過ぎ、弓は、大蔵と春に幾度も頭を下げ感謝の言葉を述べると、服部屋敷を後にした。
門まで見送りに来た穂高が
「母上、今日は来てくださって本当にありがとう。今度は是非父上と一緒にいらしてくださいね」
 と言って弓の手を握った。弓が名残惜しんで、その手をなかなか離せずにいると、灯りを持った雄一郎が現れて、弓を家まで送っていくと申し出た。穂高は雄一郎に
「母を、お願いします」
 と言葉少なに頼むと、潤んだ目で雄一郎を見つめた。雄一郎は小さくと頷くと
「では」
 と言って屋敷に背を向け歩き出した。
 弓が振り返ると、辺りはすっかり暗くなっていたが、屋敷の門前だけが篝火で仄かに明るく、穂高が手を振り見送っていた。始めは笑って手を振り返していた弓だったが、いつまでも手を振り続ける娘の姿が、次第に痛ましく見ていられなくなった。
「あの娘ったら、まだ手を振ってるわ」
「ええ、いつもそうです」
「見もしないで分かるの?」
「気配で分かります」
「なら、少しくらい応えてあげたら良いのに」
 向こうからはもう殆ど見えないだろうに、まだ手を振り続けている娘に、雄一郎は少し冷たいのではないかと弓は思った。だが雄一郎は真っ直ぐ前を向いたまま
「それは出来ません」
 と答えた。
「何故?」
 娘が哀れに思えて食い下がる弓に、雄一郎から返ってきた答えは意外なものだった。
「そんなことをしたら、帰れませんから」
「え?」
「いつもああして、俺の姿が見えなくなるまで手を振り続ける、そんな穂高の姿を見てしまったら、俺は一人でひとつ山へ帰れなくなる。だから絶対に見ないんです」
 雄一郎の姿が見えなくなると、その場にかがみ込んで忍び泣く穂高の姿までもが、雄一郎の瞼にありありと浮かんだ。
(そんな姿を見たら俺の心が挫けてしまう、今すぐ穂高の元に駆け戻って、抱き締めて連れて帰ってしまわずにはいられなくなる。だが、そんなことをしたらこの半年頑張ってきたあいつの努力が全て無駄になってしまう。だから、振り向くわけにはいかない)
 暗闇の中、灯りに照らされて揺らめく雄一郎の目を見て、弓は二人の本気を認めざるを得なかった。

 二人はそれきり話すこともなく、ただ黙々と家路を歩いた。だがその間も弓は考えていた。
 半年もの間、若い二人は離れて暮らしながら相手を思いやり、日々切磋琢磨していたのだ。それに引き換え、毎日ただ泣き暮らしていただけの自分と、やけを起こして酒に溺れていた夫。一体どちらが間違っているのか、火を見るよりも明らかだ。
(私は穂高の母親として、あの娘の幸せだけを願ってきた。なら、今私がしなければならないことはただ一つ……)
 やがて新堂家の門が見えてきた。雄一郎は弓に灯りを渡すと一礼し、声をかける間もなく闇の中へ姿を消した。弓は雄一郎が消えていった暗闇をいつまでも見つめていた。

 雄一郎と穂高が晴れて祝言を挙げたのはそれから三ヶ月後の正月のことである。



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