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No.32

服部雄一郎の過怠・六


 切り立った岩壁に挟まれた渓谷を流れる川を遡り、噛み合う歯車のように入り組んだ谷を抜けると、いきなりポカンとした空間が広がる。その突き当たりに滝はあった。白い布を垂らしたように落ちる水は、滝壺に青く溜まり川下へ流れていく。
 普段なら難なく通る苔むした岩に何度も足を取られながら、雄一郎はようやくその場所に辿り着いた。
「穂高!」
 雄一郎は叫んだ。
「穂高!」
 川縁に穂高の姿はない。
「穂高!」
 今一度高く叫んだ。川面で何かが跳ねる音がした。音の方向へ顔を向けると、雄一郎は滝壺へ飛び込んだ。

 泣きじゃくっていた穂高の耳に、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして辺りを見回すと遠く眼下に雄一郎の姿があった。雄一郎が再び名を呼んだ。思わず穂高は息を潜めた。三たび雄一郎が名を呼んだ。掠れた叫び声が谷間にこだました。と、突然雄一郎が滝壺へ飛び込んだ。潜って潜って浮かび上がってこない。恐ろしくなって声をあげようとした時、雄一郎が水面に顔を出した。が、二、三度息を整えるとまた潜ってゆく。さっきよりも潜る時間が長い。穂高が沈黙に耐え切れなくなる頃、再び雄一郎が浮かび上がってきた。肩で大きく息をして三たび潜ろうとした時、ついに穂高は叫んだ。
「雄一郎さん!」
 その声に弾かれるように上を見上げた雄一郎の目に、岩壁から横に突き出すように伸びた木の幹に小鳥のように座っている穂高の姿が入った。
(良かった、生きていた……)
 険しかった雄一郎の顔に安堵の表情が浮かんだ。ゆっくりと川から上がった雄一郎は、濡れた顔を拭おうともせず、ただ眩しげに穂高を見上げていた。穂高の真っ赤に泣きはらした目を見て、その悲しみを思うと言葉がなかった。穂高もずぶ濡れになった雄一郎の姿を見て、その胸の内の苦しみを思うと声が出なかった。そうして長い間、一言も発せず、ただ互いにじっと見つめ合っていた。

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