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小説

服部雄一郎の過怠・九


 雄一郎は少太郎の前に手を突くと己の非礼を心から詫びた。
「私の様な不逞の輩の言葉など、信じてはもらえませんでしょうが、私は決して御息女を辱めるつもりでお返ししたのではありません。御息女に相応しい、然るべき方との婚儀が先にあると思ってお返ししたのです。私は真剣にその一助としての役目を果たしたつもりでおりました。しかし、それが斯様な事態を招くとは夢にも思わず、己の未熟さを深く恥じ入るばかりです。斯くなる上は、如何なる責めをも負う覚悟にございます。どうぞ御沙汰を。」
 毒気を抜かれた少太郎は、雄一郎に虚ろな眼差しを向け、ぼそりといった。
「失せろ」
「分かりました」
「二度と娘に近づくな」
「決して」
「死んでしまえ」
「はい」
 命じるたびに蒼白になってゆく娘の顔と、雄一郎を交互に見比べ、少太郎は地面に視線を落とし、
「そうして結局、俺は娘を失うのだな……」
と、弱々しく呟いた。
「生きるも死ぬも好きにしろ、穂高とは……もう親子の縁は切れておる」
 少太郎はよろよろと立ち上がると気を失っている弓の頬を軽く打って起こし、
「帰るぞ」
 と言って雄一郎らに背を向けた。
「新堂殿、いま少し待ってはいただけませんか」
 春が口を開いた。
「このまま親子が別れてしまっては、余りにも惨いではありませんか。息子の失態は母である私にも責任があります、どうか、いましばらく時間をお与えくださいませ」
「時間?」
 春の言葉に、少太郎は目を眇め振り返った。

No.35  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・八


「父上、貴方という人は!」
 果たして、穂高は激昂した。
「二言目には家名、家名と言うけれど、人をそのように愚弄して憚らない厚顔無恥こそ、家名に恥ずべき行為なのではありませんか!? 私は、恥ずかしい!」
 娘に痛烈に批判され、少太郎も逆上した。
「黙れ、この恥知らずが! 俺はお前をそんなふしだらな女に育てた覚えはないぞ!」
 こうなってくるともう売り言葉に買い言葉である。
「上等です、父上。最早、親でもなければ子でもありません。今日を限り、私は貴方と親子の縁を切ります!」
 そう言うや否や、穂高は懐から小刀を取り出して、後手に掴んだ髪を元結からぶっつりと切り落とした。弓が卒倒し、忍が駆け寄った。
「これで新堂家に汚名を被せた人間は居なくなったはずです。それでもまだ雄一郎さんを斬ると言うのなら、私も腹を斬ります!」
 穂高は断ち切った髪を投げ捨てて啖呵を切った。

 敵わんな……と雄一郎は思った。俺はもうこいつには一生頭が上がらんかもしれん。だがそれも良いだろう、いや、それが良い。
 父と娘の容赦ない罵り合いに皆が呆気に取られる中、雄一郎は輝之に目配せすると、もう大丈夫だと口の動きで伝えた。輝之は小さく頷き、掴んでいた雄一郎の腕を、そっと離した。雄一郎は手にした飛苦無を懐に戻し、消えるようにその場から離れると、音もなく岩壁を這い上がり、頭に血が上って我を失った穂高の脇についと立って、その手から刃物を取り上げた。
「もうその辺にしておけ。でないと、お前より先にお前の母親が息絶えてしまうぞ」
 そう言って雄一郎はすうっと指を差した。その指の先に失神した母を見た穂高は、たちまち色を失った。
「輝之、縄!」
 雄一郎は輝之に縄を求めた。我に返った穂高は自分のしたことが急に恐ろしくなって身体が硬直してしまい、連れて壁を降りることは難しかった。おう、と応えて輝之が雄一郎の足元へ鉤縄を巻きつけた。
「助かる」
 そう言うと、雄一郎は穂高の腰をしっかり抱き寄せ、器用に縄を伝って地面へ降り立った。少太郎もまた先程までの気勢をそがれ茫然自失の態であった。輝之は
「もう良いですな?」
 と声を掛けると、少太郎の手から刀を取り上げ鞘に収めた。少太郎の手は力無く地べたに垂れた。

No.34  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・七


 どれくらいの時間が経っただろうか。静寂は突然の怒声に破られた。穂高の父、少太郎だった。その後ろから輝之と、穂高の母の弓が現れた。弓は穂高の顔を見ると安心して気が抜けたのか、その場にへなへなとへたり込んだ。
「さあ、いまこそ責任を取ってもらおうか」
 怒りで顔を歪ませた少太郎は、肩で息をしながら手にした刀の切先を雄一郎に向けた。雄一郎は少太郎を真っ直ぐに見つめると居住まいを正し、ゆっくりと膝をついた。そして、その場に正座すると懐から飛苦無を取り出し、衿をぐいと開いて腹を露わにした。
「見ておれ穂高、お前と新堂の名を穢した『外れの雄蔵』を、この父が成敗してくれる」
 そう言うと、少太郎は刀を大上段に構えた。
「やめて! そんなことをするなら、私はここから身を投げます!」
 穂高はそう叫んで足場の悪い木の上に立ち上がった。穂高の母が小さく悲鳴をあげ、少太郎が一瞬怯んだ。すかさず輝之が二人の間に割って入り、二人の刃物を持った腕をがっちりと掴んだ。
「父上は間違っています。新堂の名を穢したのはこの私です。何故なら、私が、二人を騙して、床親の契約を結んだのですから」
 穂高の告白に、少太郎は色をなした。
「得てもいない許しを得たと偽って、それを盾に契約を迫ったのは私なのです」
 雄一郎の背中を見つめる穂高の目に涙が浮かんだ。
「愚か者が、だがそれも『外れ』の入れ知恵なのだろう、何処までも卑劣な奴め!」
 怒りと恥辱に唇を震わせ少太郎が吐き捨てるように言った。

「お待ちなさい」
 背後から女性の声がした。振り向くと服部春が東海林忍に手を引かれて、そこに立っていた。
「二人とも、まずはその刀を鞘に収めてはくれませんか。この伊賀の里で刃傷沙汰が起きるのを、私は見過ごすわけには参りません」
 穏やかな口調で春が呼び掛けた。が、少太郎は頑として譲らなかった。
「お言葉ではございますが、我が家名が彼奴の為に穢されたのは明白な事実。例え契約が娘の嘘によるものだとしても、それを見抜けなかったこの男に、罪がないと言えましょうか。腹違いとはいえ、大蔵様の御子を庇いたいお気持ちは、親として分からんでもありません。だが、私にも家長として守らねばならんものがあります!」
 まずいな、と雄一郎は思った。
(このままだと父親の言葉に刺激されて穂高が早まりかねない。滑りやすいこの場所で、あの高さから飛び降りる穂高をどう助けるか。俺はどうなっても構わんが、穂高は絶対に守らねば)
 雄一郎は顔を伏せたまま皆に気付かれぬよう辺りを伺い、いざという時の行動を頭の中で繰り返し反芻していた。

No.33  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・六


 切り立った岩壁に挟まれた渓谷を流れる川を遡り、噛み合う歯車のように入り組んだ谷を抜けると、いきなりポカンとした空間が広がる。その突き当たりに滝はあった。白い布を垂らしたように落ちる水は、滝壺に青く溜まり川下へ流れていく。
 普段なら難なく通る苔むした岩に何度も足を取られながら、雄一郎はようやくその場所に辿り着いた。
「穂高!」
 雄一郎は叫んだ。
「穂高!」
 川縁に穂高の姿はない。
「穂高!」
 今一度高く叫んだ。川面で何かが跳ねる音がした。音の方向へ顔を向けると、雄一郎は滝壺へ飛び込んだ。

 泣きじゃくっていた穂高の耳に、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして辺りを見回すと遠く眼下に雄一郎の姿があった。雄一郎が再び名を呼んだ。思わず穂高は息を潜めた。三たび雄一郎が名を呼んだ。掠れた叫び声が谷間にこだました。と、突然雄一郎が滝壺へ飛び込んだ。潜って潜って浮かび上がってこない。恐ろしくなって声をあげようとした時、雄一郎が水面に顔を出した。が、二、三度息を整えるとまた潜ってゆく。さっきよりも潜る時間が長い。穂高が沈黙に耐え切れなくなる頃、再び雄一郎が浮かび上がってきた。肩で大きく息をして三たび潜ろうとした時、ついに穂高は叫んだ。
「雄一郎さん!」
 その声に弾かれるように上を見上げた雄一郎の目に、岩壁から横に突き出すように伸びた木の幹に小鳥のように座っている穂高の姿が入った。
(良かった、生きていた……)
 険しかった雄一郎の顔に安堵の表情が浮かんだ。ゆっくりと川から上がった雄一郎は、濡れた顔を拭おうともせず、ただ眩しげに穂高を見上げていた。穂高の真っ赤に泣きはらした目を見て、その悲しみを思うと言葉がなかった。穂高もずぶ濡れになった雄一郎の姿を見て、その胸の内の苦しみを思うと声が出なかった。そうして長い間、一言も発せず、ただ互いにじっと見つめ合っていた。

No.32  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・五


 その頃、東海林輝之の妻、(しのぶ)は村へ急いでいた。夫の友人がとんでもない失態を冒したので、服部家の奥方の春に取りなしを頼んでくるよう夫に命じられたのだ。しかし村人に気取られて騒ぎにならぬよう、あくまでも平静を装いつつ、慌てず静かに大至急という難しい要求だった。それでも忍びの女らしく素知らぬ顔で村に入ると、ちょっとお使いに参りましたとでもいう風に服部家の玄関に入り、御免くださいと声をかけた。やがて現れた春の姿を確認すると、忍はひれ伏して夫に受けた命を春に伝えた。
 ――夫の友人でもある、ご子息の服部雄一郎様が、新堂家の一人娘と床親の契約を結ばれたのですが、娘側からの床親指名が遠回しな求婚の申し込みだと知らなかったらしく、床入儀が済んだ娘を親元に帰してしまったので、親が家と娘を辱められたと激昂し仇討ちに乗り込んできました。夫からその意味を知らされた雄一郎様は、両家の面目を立てんがために切腹して責任を取ると仰るのですが、帰した娘が行方知れずになったと聞き、ひとまず娘を探しに行っております。夫は立会人として付き添いながら、即座にことが成されぬよう両者を見張っていますが、このままでは流血沙汰は必至と見て、私に春様にお取りなしを頼むようにと、そう申し使って参りました――

 話を聞いた春は青ざめた。世間知らずの雄一郎が、いつか取り返しのつかない失敗をしでかすのではないかと常日頃から案じていたが、遂にそれが現実のものとなってしまった。とにかく、大事になる前に何とか収めねばならぬ。だがどうしたら良いものか……。
 思案する春の背後から、話を盗み聞きしていた陣蔵が真っ青な顔で現れた。陣蔵は、兄と結ばれてほしくて新堂穂高に入知恵をしたのは自分だと白状した。子供のくせに小賢しい真似を、と腹を立てる春だったが、今はそれを咎めている時間はない。春は奥の部屋で手早く身支度を整え、忍の案内でひとつ山へ向かった。この伊賀の里で、家同士の揉め事から死者が出るようなことは決してあってはならぬ、何としても両者を止めなくては。春は足を速めた。

No.31  伊賀隠レ里異聞小説本文