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伊賀隠レ里異聞

床入儀顛末記

(とこいりのぎてんまつき)20150415-20210831_1.jpg20150415-20210830_2.jpg20150415-20210829_3.jpg20150415-20210829_4.jpg20150415-20210830_5.jpg20150416-20210830_1.jpg20150416_2.jpg20150416_3.jpg20150416-20210830_4.jpg20150416_5.jpg20150416_6.jpg20150416_7.jpg20150601_1.jpg20150601_2.jpg20150601_3.jpg20150503_1.jpg20150503_2.jpg20150418.jpg#1962年(昭36)畳む

No.37  伊賀隠レ里異聞


服部雄一郎の過怠・十


「雄一郎を、服部家の人間として恥ずかしくないよう鍛え直します。それを見てから二人を許すか許さないか、御沙汰をお決めになるわけには参りませんでしょうか」
 春の提案を聞いた少太郎は鼻で笑った。
「服部家の人間として鍛え直す? それはつまり雄蔵殿を服部家の家督を継ぐに相応しい男にするということですかな? 仮にそうなったとしても、雄蔵殿に家督を継がせられますかな? 出来ますまい。そんなおためごかしに私が納得するとでも思ったか。それこそ女の浅知恵と言うもの」
 少太郎の厳しい言葉に、春は二の句が継げなかった。
「私が服部家の家督を継ぐに相応しい人間になれば、私の過ちを許していただけるのでしょうか」
 代わりに雄一郎が言葉を続けた。
「ならば、私は……」
 少太郎は訝しげに雄一郎を見た。しかし先程とは異なり、雄一郎の顔には明らかに苦渋の色が滲んでいた。
(命や名誉を失うことよりも、父親に頭を下げて実家に出戻ることの方がこの男には苦痛らしい。苦しまぬ贖罪を与えてもなんの慰めにもならんが、これならば……)
「貴方、もう止してください」
 弓が雄一郎の答えを遮った。
「そんなことをして、後で痛い目を見るのは貴方なのですよ。それにさっきご自分でも仰ったでしょう、何をやっても結局は娘を失うことになるのだと」
 これまで気を失っているだけだった妻に、ぐうの音も出ない正論を吐かれて少太郎はがっくりと肩を落とした。
「帰りましょう貴方。春様、夫の度重なる無礼をどうかお許しくださいませ」
 深々と頭を下げて一礼すると、弓は少太郎を支えるように谷を後にした。残された者は皆一様におし黙って帰路についた。

 ひとつ山の麓に着くと、雄一郎は輝之と忍に厚く礼を言い、二人とはそこで別れた。そして三人は服部屋敷へ向かった。
 春は穂高のざんぎりになった頭を、縮緬の風呂敷で頭巾のように覆い隠した。黄八丈に頭巾の藤色がよく映えて、美しいと雄一郎は思った。
 村に入ると奇妙な三人組は否応無く村人の好奇の目に晒された。春が先立ち、その後について雄一郎と穂高が並んで歩く姿は、どう考えても訳ありな二人を春がしょっぴいているようにしか見えなかったので、家に着く頃には野次馬で人だかりが出来ていた。

 屋敷に着いて玄関に入ると、上がりに腰を掛けて待っていた陣蔵の顔がパッと明るくなった。しかし、穂高が頭巾代わりの風呂敷を取ると、うつむいて唇を噛んだ。

続く

No.36  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・九


 雄一郎は少太郎の前に手を突くと己の非礼を心から詫びた。
「私の様な不逞の輩の言葉など、信じてはもらえませんでしょうが、私は決して御息女を辱めるつもりでお返ししたのではありません。御息女に相応しい、然るべき方との婚儀が先にあると思ってお返ししたのです。私は真剣にその一助としての役目を果たしたつもりでおりました。しかし、それが斯様な事態を招くとは夢にも思わず、己の未熟さを深く恥じ入るばかりです。斯くなる上は、如何なる責めをも負う覚悟にございます。どうぞ御沙汰を。」
 毒気を抜かれた少太郎は、雄一郎に虚ろな眼差しを向け、ぼそりといった。
「失せろ」
「分かりました」
「二度と娘に近づくな」
「決して」
「死んでしまえ」
「はい」
 命じるたびに蒼白になってゆく娘の顔と、雄一郎を交互に見比べ、少太郎は地面に視線を落とし、
「そうして結局、俺は娘を失うのだな……」
と、弱々しく呟いた。
「生きるも死ぬも好きにしろ、穂高とは……もう親子の縁は切れておる」
 少太郎はよろよろと立ち上がると気を失っている弓の頬を軽く打って起こし、
「帰るぞ」
 と言って雄一郎らに背を向けた。
「新堂殿、いま少し待ってはいただけませんか」
 春が口を開いた。
「このまま親子が別れてしまっては、余りにも惨いではありませんか。息子の失態は母である私にも責任があります、どうか、いましばらく時間をお与えくださいませ」
「時間?」
 春の言葉に、少太郎は目を眇め振り返った。

No.35  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・八


「父上、貴方という人は!」
 果たして、穂高は激昂した。
「二言目には家名、家名と言うけれど、人をそのように愚弄して憚らない厚顔無恥こそ、家名に恥ずべき行為なのではありませんか!? 私は、恥ずかしい!」
 娘に痛烈に批判され、少太郎も逆上した。
「黙れ、この恥知らずが! 俺はお前をそんなふしだらな女に育てた覚えはないぞ!」
 こうなってくるともう売り言葉に買い言葉である。
「上等です、父上。最早、親でもなければ子でもありません。今日を限り、私は貴方と親子の縁を切ります!」
 そう言うや否や、穂高は懐から小刀を取り出して、後手に掴んだ髪を元結からぶっつりと切り落とした。弓が卒倒し、忍が駆け寄った。
「これで新堂家に汚名を被せた人間は居なくなったはずです。それでもまだ雄一郎さんを斬ると言うのなら、私も腹を斬ります!」
 穂高は断ち切った髪を投げ捨てて啖呵を切った。

 敵わんな……と雄一郎は思った。俺はもうこいつには一生頭が上がらんかもしれん。だがそれも良いだろう、いや、それが良い。
 父と娘の容赦ない罵り合いに皆が呆気に取られる中、雄一郎は輝之に目配せすると、もう大丈夫だと口の動きで伝えた。輝之は小さく頷き、掴んでいた雄一郎の腕を、そっと離した。雄一郎は手にした飛苦無を懐に戻し、消えるようにその場から離れると、音もなく岩壁を這い上がり、頭に血が上って我を失った穂高の脇についと立って、その手から刃物を取り上げた。
「もうその辺にしておけ。でないと、お前より先にお前の母親が息絶えてしまうぞ」
 そう言って雄一郎はすうっと指を差した。その指の先に失神した母を見た穂高は、たちまち色を失った。
「輝之、縄!」
 雄一郎は輝之に縄を求めた。我に返った穂高は自分のしたことが急に恐ろしくなって身体が硬直してしまい、連れて壁を降りることは難しかった。おう、と応えて輝之が雄一郎の足元へ鉤縄を巻きつけた。
「助かる」
 そう言うと、雄一郎は穂高の腰をしっかり抱き寄せ、器用に縄を伝って地面へ降り立った。少太郎もまた先程までの気勢をそがれ茫然自失の態であった。輝之は
「もう良いですな?」
 と声を掛けると、少太郎の手から刀を取り上げ鞘に収めた。少太郎の手は力無く地べたに垂れた。

No.34  伊賀隠レ里異聞小説本文


服部雄一郎の過怠・七


 どれくらいの時間が経っただろうか。静寂は突然の怒声に破られた。穂高の父、少太郎だった。その後ろから輝之と、穂高の母の弓が現れた。弓は穂高の顔を見ると安心して気が抜けたのか、その場にへなへなとへたり込んだ。
「さあ、いまこそ責任を取ってもらおうか」
 怒りで顔を歪ませた少太郎は、肩で息をしながら手にした刀の切先を雄一郎に向けた。雄一郎は少太郎を真っ直ぐに見つめると居住まいを正し、ゆっくりと膝をついた。そして、その場に正座すると懐から飛苦無を取り出し、衿をぐいと開いて腹を露わにした。
「見ておれ穂高、お前と新堂の名を穢した『外れの雄蔵』を、この父が成敗してくれる」
 そう言うと、少太郎は刀を大上段に構えた。
「やめて! そんなことをするなら、私はここから身を投げます!」
 穂高はそう叫んで足場の悪い木の上に立ち上がった。穂高の母が小さく悲鳴をあげ、少太郎が一瞬怯んだ。すかさず輝之が二人の間に割って入り、二人の刃物を持った腕をがっちりと掴んだ。
「父上は間違っています。新堂の名を穢したのはこの私です。何故なら、私が、二人を騙して、床親の契約を結んだのですから」
 穂高の告白に、少太郎は色をなした。
「得てもいない許しを得たと偽って、それを盾に契約を迫ったのは私なのです」
 雄一郎の背中を見つめる穂高の目に涙が浮かんだ。
「愚か者が、だがそれも『外れ』の入れ知恵なのだろう、何処までも卑劣な奴め!」
 怒りと恥辱に唇を震わせ少太郎が吐き捨てるように言った。

「お待ちなさい」
 背後から女性の声がした。振り向くと服部春が東海林忍に手を引かれて、そこに立っていた。
「二人とも、まずはその刀を鞘に収めてはくれませんか。この伊賀の里で刃傷沙汰が起きるのを、私は見過ごすわけには参りません」
 穏やかな口調で春が呼び掛けた。が、少太郎は頑として譲らなかった。
「お言葉ではございますが、我が家名が彼奴の為に穢されたのは明白な事実。例え契約が娘の嘘によるものだとしても、それを見抜けなかったこの男に、罪がないと言えましょうか。腹違いとはいえ、大蔵様の御子を庇いたいお気持ちは、親として分からんでもありません。だが、私にも家長として守らねばならんものがあります!」
 まずいな、と雄一郎は思った。
(このままだと父親の言葉に刺激されて穂高が早まりかねない。滑りやすいこの場所で、あの高さから飛び降りる穂高をどう助けるか。俺はどうなっても構わんが、穂高は絶対に守らねば)
 雄一郎は顔を伏せたまま皆に気付かれぬよう辺りを伺い、いざという時の行動を頭の中で繰り返し反芻していた。

No.33  伊賀隠レ里異聞小説本文